2013年08月27日

50番の女将

ボクが一番最初に見た電話にはダイヤルがついてなかった。
黒い電話で、右側にハンドルがついてた。
受話器を取って、ハンドルを回すと、電話の向こうでおねぃさんが、
「何番につなぎますかぁ?」
そこで、先方の電番号を伝えて繋いでもらうのだ。
市外にかける時は、ちとめんどうで、確か、いったん受話器を切って、
先方からかかってくるのを待ったんだと思う。

タイトルの50番というのは、その頃の家の電話番号。
市内で50番目について電話機だったのだ。
50番の女将というのは、家の祖母を指す。
鳥取県内では、ちょっと有名な女将だった。
明治何年か創業の古い町屋旅館を買い取ってのれんを引き継いだのだが、
お金持ちだったわけではない。
戦時中、韓国で連れ合いを亡くし、子供三人を抱えて引き揚げてきた。
着の身着のまま、当時倉吉に嫁いでいた母親(ボクの曾祖母)をたよって、見知らぬ街にたどり着いたのだ。それから、老舗旅館の仲居を務め、とうとう買い取ってしまったらしい。

ボクが子供のころ、旅館の主たるお客様は、当時倉吉市長だった小谷善高氏をはじめ、米子市長(野坂寛治氏だったか?)だとか、鳥取県議会議長だとか、県内の有名人が時々集った。なんたることか、小学校に入学前のボクも、お歴々の席に連なって、ずいぶん可愛がられた記憶がある。50番の女将という呼び名は、カレ等が、祖母をそう呼んだものらしい。
祖母は尋常小学校しか出ていない。しかし、勤勉だった。お歴々としゃれた会話も楽しんだし、碁を打ったりもした。どこで修業したのか、祖母の作る料理はれきとした会席料理だった(一説によると一時京都の老舗旅館で女将修業をしたときに見よう見まねでおぼえたとか・・・。この縁でボクの母もこの旅館で行儀見習いをしたことがあるらしい。)。
IMG_0107.JPG

いわゆる鰻の寝床の間口が狭く、奥に長い町屋旅館で、玄関から裏口まで通り土間がつづいていた。途中、寂びた坪庭があり、ちいさなつくばいがあった。
白い漆喰壁と黒い焼き杉の腰板のコントラストが美しい玄関口だった。

その老舗旅館も、今はない。

老舗「きしもと」の暖簾を、もう一度掛けるのは、ボクの夢のひとつでもある・・・。
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posted by mikihito at 00:10| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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